2008/10/21

在日ビルマ難民たすけあいの会(インタビュー)

茨城県牛久の東日本入国管理センター収容所での面会活動を続け、収容者たちから「お母さん」と慕われるひとりの女性のもとに、長い収容生活を生き抜いてきたビルマ人難民たちが集い、2008年3月、ひとつのグループが結成された。

そのグループの目的は、日本に逃げてきたビルマ国籍の難民たちの命を守ること、難民の命を救うどころか削り取ることに汲々としている入管行政からの避難所となること、故郷を離れて暮らさざるをえない難民たちの憩いの場となること、そして、ビルマ軍事政権との闘いを背後から支える活力の補給所となること。


「ビルマ難民と日本人で創る民主化のためのセーフティネット!」という新たな切り口からビルマ民主化運動を支え、ビルマ人と日本人との厳しい議論のなか運営されるこの「在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)」を特集するにあたり、BRSAの2人のキーパーソン、事務局長のモーチョーソーさんと、同じく事務局のフラティントゥンさんに話を聞いた(通訳:マウンミィンルインさん)。

フラティントゥンさん  マウンミルインィンさん  モーチョーソーさん

《まずモーチョーソーさんからお聞きします。「在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)」の発足の経緯を教えてください。

モーチョーソー:
牛久入管の収容者のために面会に来たり働いたしてくださった「牛久の会(牛久入管収容所問題を考える会)」の方々、西田敦先生(BRSA顧問)、山村淳平先生(港町診療所医師)に恩返ししたいという気持ちがまずはじめにありました。

もうひとつ、牛久の元収容者のビルマ人が、長期の収容のため精神状態を悪化させて、仮放免後、やはり元収容者であった同居人のビルマ人を殺害するという事件が起きました(2007年11月5日、高田馬場で起きた事件。犯人のKさんは現在服役中)。

殺人を犯したKさんは非常に追いつめられていたのですが、このような状況におかれた人に対し、同じ入管での収容経験を経験を持つわたしたちは、適切な働きかけをすることができませんでした。そうしていればもしかしたらこのような過ちは防ぎえたかもしれないのに、当時はBRSAのようなグループがなかったので何もすることができなかったのです。

そこで、牛久の会のメンバーで現会長の大瀧妙子さんに相談したところ、ビルマ難民が集まって、たすけあうグループが必要だっていうことになって、BRSAが始まったのです。

また、日本にはビルマ人による多くの政治団体がありますが、在日ビルマ難民の人権のために活動しているビルマ人の団体はありません。軍事政権を倒すための政治活動はもちろん重要ですが、その政治活動をする人々の人権を守る組織もやはり必要なのです。これこそがわたしたちが入管に収容されていたときに感じたことでした。わたしが入管に収容されていた時期は、ビルマ人が100人以上いた最盛期でしたが、困っていたわたしたちをもっとも助けてくれたのは、ビルマ人ではなく、大瀧さんをはじめとする日本人の支援者だったのです。

だから、同じビルマ人どうしでたすけあわなくてどうする、という気持ちが出発点にあります。

《牛久の会の大瀧さんがこの会の中心人物になったのはどのようないきさつからですか。》

モーチョーソー:
牛久の会の方々には、わたしたちは非常に助けてもらいましたが、中でも大瀧妙子さんに本当にお世話になりました。わたし自身牛久の収容所に2006年6月14日から2007年3月19日まで収容されていましたが、大瀧さんは熱心に面会に来てくださり、わたしたちの状況を本当に理解してくれました。わたしたちにとっては心から信頼できる「お母さん」のような存在です。そこで、この新しい会の会長を大瀧さんにお願いしたいと話したところ、「みなさんが望むなら、やりましょう」ということで、引き受けてくださったのです。

はじめは、大瀧さんとつながりのあるビルマ人、つまり牛久に収容されていたことのあるビルマ人を中心にグループを作ろうと考えていました。でも、そうではなくて、牛久の元収容者だけでなく、ビルマから逃げてきた同じビルマ人全員でたすけあいの輪を広げようということになったのです。現在、このようなビルマ人はたくさんいます。日本での生活のこと、日本語のこと、難民認定申請のこと、いろいろな悩みを抱えて生きています。だから、誰であろうとビルマ人ならば会員として受け入れるという方針でわたしたちは準備を進めました.はじめの会議は3月9日、それから規約作り、会員集め、役員の人選などの段階をへて、3月30日の総会をもって本格的にスタートしました。

現在、会員は166人を超え、基金も西田先生の200万円ものご寄付もあって、少ないながらも支援活動を維持しています。この6ヶ月で、4名の会員に月1万円の生活費支援を行い、4名の収容者の方に仮放免保釈金を15万円から20万円貸与しています。

もちろん、基金が大きくなればそれだけ支援を受ける人の数も、個々の支援額も大きくすることができます。そのためには会員を増やすことが重要ですし、また日本人の支援団体にご理解をいただき、寄付を募る活動も必要です。とにかく、生活費、医療費など支援を必要とするビルマ難民はまだいるのです。

《これまでの6ヶ月の活動を振り返って、運営上の問題点などはありましたか。》
モーチョーソー:
まず挙げられるのは、わたしたちビルマ人と大瀧さんをはじめとする日本人の会員との間に、言葉の壁が存在することです。相互理解が不十分であるため、例えば規約の解釈を巡って、ときに対立が生じることがあります。

もうひとつは、会の活動の基盤である支援そのものの決定方法、手続きが定まっていないことです。次の総会までにしっかり議論して、よりよい支援ができるよう改めていきたいです。

《どうしてビルマ人と日本人とで会を作ろうということになったのですか。格別な利点というものがあるのでしょうか。》
モーチョーソー:
大瀧さんの存在がなによりも大きいです。わたしたちと彼女との間には、本当の信頼関係というものがあります。大瀧さんが会長だからこそ、わたしたちはひとつになることができるのです。

《最後に、在日ビルマ難民の立場から日本社会に対してどのような要望がありますか。》
モーチョーソー:
まず、入管への収容などの難民に対する人権侵害をやめて、わたしたちビルマ人が難民となった理由をもっとよく理解してほしいです。つぎに、ビルマ難民が日本での生活によりよく適応できるよう支援をしてほしい。3点目には、ODAなどを通じて軍事政権を支援するのは絶対にやめてほしいと、日本政府に訴えたいです。

《では、次にフラティントゥンさんにおうかがいします。熱心に入管での面会活動を続けておられるフラティントゥンさんはBRSAと収容者とをつなぐパイプのような役割を果たされています。そこで、現在の入管の状況についてお聞きしたいのですが。》
フラティントゥン:
以前よりはずっと改善されたと思っています。わたしたちの多くが収容されていた2006年、2007年頃は、非常に厳しいものでした。収容期間は平均して1年間、保釈金は100万円でした。今は、難民認定申請前に収容された場合でも4〜5ヶ月で仮放免が出ますし、保釈金も30万円になっています。お台場の第2次難民審査で不認定となって収容された場合では、1週間から5週間の間に仮放免(保証金は30万)が出ています。

今一番大変なのは、日本に来てすぐに逮捕された人や、成田空港での入国時に難民認定申請して認められずにそのまま収容されてしまった人たちです。こうした人々は、日本での生活経験が少ないかまったくなく、そのため仮放免申請のための保証人になってくれる知り合いもいなければ、保釈金の当てもないのです。

《ということは、今なお、ビルマから逃げてくる難民は増え続けているのですか。》
フラティントゥン:
ええ、そうです。去年のサフラン革命以降、国内の状況はさらに厳しくなり、多くの難民がタイをはじめとする近隣各国に逃げています。

《現在(2008年9月14日)、牛久には何人のビルマ人が収容されていますか。》

フラティントゥン:
男性が9人です。最長の人は3年以上収容されています。難民不認定となった彼は、仮放免申請を頑として出さずに耐え暮らしていましたが、先週ついに仮放免申請をする決心をしたそうです。

《日本の難民制度についてはどうお考えですか。》

フラティントゥン:
日本は難民条約を批准しているにもかかわらず、批准していないタイやマレーシアよりも難民に対する扱いが厳しいということがいえます。収容、そして釈放されるための保証人と保釈金、日本の難民制度は、困っている難民をさらに困らせる制度です。しかも、仮放免後、生活のために働くことも許可されていないのです。欧米での難民の処遇とはまったく雲泥の差です。日本はアジアで最大の力を持っている国なのですから、アジアの難民に対して果たすべき責任があると思います。

0 件のコメント: